おっすー、今日は誰もが知っている音楽家のモーツァルトさんをご紹介するぜ
彼のエピソードは多いから皆知っているだろうが、書いてみるぜ
古典派の代表格であるモーツァルト
オーストリア出身の彼は幼い頃から天才と言われていた
短い生涯での作品数は900曲にもおよぶ
一体なぜここまで天才なのかを探ってみよう!
幼少から既に天才
ザルツブルクに生まれた彼は幼少から楽器を使って遊んでいたそうだ
音楽家である父・レオポルトはモーツァルトが3歳の時にチェンバロを弾かせてみたらメキメキ上達していき、5歳の時には作曲も行った(Mozart Andante in C major K.1a)自分の息子が天才だと分かった父・レオポルトはモーツァルトを連れてウィーン、パリ、ロンドンなどの地方を回った
天才であるモーツァルトの演奏を披露し、今より良い就職先を探そうとしたらしい。しかし就職活動は失敗する
今風に言うと転職難民かな?(父は職を持っていたので)
モーツァルト(当時6歳)は1762年10月13日、シェーンブルン宮殿においてマリア・テレジアの御前で演奏をした
その際に宮殿内で転んでしまうモーツァルト、そこへある女の子がモーツァルトに手を差し伸べる
その女の子こそ後のフランス王妃となる、当時7歳のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)だったのだ
幼いのに皇女にプロポーズをしてしまうとは、、、天才はやることが違うね
金銭的な運に恵まれなかった
彼の音楽活動は華やかなイメージとは違って金銭的な余裕がなかったとされる
イタリア旅行で音楽を学びながら巡回し、1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与されるほど実力をつけたが、名声は象徴的なもので、当時発表した曲は絶賛されるものの報酬がわずかなものであったらしい
1778年には父・レオポルトに命じられパリへ行くが、受け入れ先では冷遇されて稼ぎも悪かった
モーツァルトを自宅に招き、彼の演奏聴いた人々は絶賛するも報酬は出し惜しみしたという
1781年にはザルツブルク大司教の命令でウィーンへ移るが、大司教とトラブルを起こしクビになってしまう
ここでモーツァルトはウィーンを本拠地と決め、フリーの音楽家として活動することにした
演奏、作曲、レッスン、楽譜出版などで生計を立てた
そうした頑張りが功を奏したのかハイドンから一目を置かれるようになり、自分への作曲依頼に対してモーツァルトを代役に推薦するなど良い扱いを受ける
翌年には作曲した曲がプラハで大ヒットしたり新曲の依頼もこなすものの、何故か金回りが悪かったのかモーツァルトは周りに借金依頼をするようになる
晩年も借金を依頼することが多く、お金に困っていた
これにはモーツァルト自身が浪費癖があったり、単価の良い仕事に恵まれなかったなどの理由がある
そんな中でも演奏会を開いて活動を続けていたが、客入りは悪かった
若すぎる終焉
リューマチを発祥し悪化したモーツァルトは1791年3月に演奏家としては最後のステージを行う、その後は病に戦いながら作品を作り続けた
ある作品を作っている最中に倒れ2週間後に35歳の若さでこの世を去る
彼の誤報をウィーンの新聞社は憶測を交えて「モーツァルトは毒でやられた」という報じ方をした
それによって疑いをかけられた者もいた
最後に
彼は生涯で900曲以上の作品を書いたそうだ
しかし金銭的には豊かではなかったモーツァルト
生計の為に音楽活動をしていたという見解もあるほど、金に困っていた
聴衆の注文に答えるような曲が多かったが、晩年の曲はモーツァルト自身が書きたい曲が増えていたとされる
今の時代から見ても天才のモーツァルトではあるが、その生涯は第3者から見て裕福ではないし幸せかどうかもわからない
彼は生まれる時代が悪かったのかもしれない